石田 三成   

Excite 三成ら四奉行連名の文書 秀吉の命で石高報告求める

 ちょうど「功名が辻」では「関ヶ原の戦い」をやってましたので、彼は一体どんな人物だったのだろうと考えてしまった。
ほとんどが悪玉として描かれているが本当にそうだったのか興味がつきないのであるが、どうも人望は無かった様に思える。
「関ヶ原」であれだけ日和見が多かったというのは、その点もあったのではと思えてならない。そこまで憎まれているというのも不思議だけど。
朝鮮への出兵で何の成果も得られずに異国でつらい思いを味わった諸候の恨みが彼に集中したという解釈が一番分かりやすいかなとは思うが。


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天正2年(1574)近江で秀吉に見出され家臣となる。
天正5年(1577)秀吉の中国攻めに従軍(天正10年まで)
天正11年(1583)水口4万石城主となる。島左近を1万5千石で召抱える。
賤ケ岳の戦いの兵站で非凡の才能を発揮する。
天正12年(1584)太閤検地の奉行を務める。
天正13年(1585) 従五位下治部少輔に任じられる。
天正15年(1587)朝鮮攻めの兵站基地として博多の町割り奉行を務める。
天正18年(1590)近江佐和山19万4千石の城主となる。
武蔵忍城攻めの総大将として出陣するが、失敗する。
文禄元年(1592)朝鮮征伐軍の総奉行として渡海。
慶長3年(1598)秀吉死去。
慶長4年(1599)徳川家康を問責。
前田利家死去。
加藤清正ら七将に襲撃される。
奉行を辞職し、佐和山に謹慎する。
慶長5年(1600)家康討伐のため出陣。(関ヶ原の戦い)
七条河原で斬首される。(没年41歳)

こういう歴史の面白さを知る事の無い高校生たち、残念ですね。
こういうのを勉強しなくて何を勉強するんですかね。






 豊臣秀吉の命で石田三成ら4人の奉行が、鳥取城主に石高を記した「御前帳」を提出するよう命じた文書が滋賀県愛荘町で見つかり、同町教委が6日、発表した。直筆とみられる4人の花押が記されていた。
 御前帳は諸国の石高や絵図を記した帳簿で、秀吉が天下統一後に諸国へ命じて提出させたという。同町教委は「実物が見つかったのは初めてではないか」と話している。
 文書は和紙で縦31・2センチ、横約50センチ。1591(天正19)年5月3日付で、因幡国(鳥取県)の城主宮部継潤にあてて「10月までに御前帳を出すように」と書かれていた。継潤は浅井長政の家臣で近江国(滋賀県)出身。秀吉の天下統一に貢献したとされ、文書は継潤の子孫の宮部家に伝わったものらしい。
 文書は石田三成と長束正家、増田長盛、前田玄以の連名。文章と三成らの名前は家臣が書き、奉行4人が後から花押を入れたとみられる。
 10月中ごろ、愛荘町の公民館で住民が発見。同県長浜市の長浜城歴史博物館などが花押の筆跡や紙の質などから実物と判断した。

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by e_jovanni | 2006-11-07 01:00 | いっちょかみ

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