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アフガンのソ連侵攻   

先月末頃ですか、NHKでソ連のアフガン侵攻時の公文書が公開された事に関してドキュメンタリーをやっていました。その感想などを少し。

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中央アジアとインド亜大陸の間に位置するアフガニスタンは昔から強国がその勢力圏を拡大しようと激しい闘争を繰り広げたことで知られている。19世紀のロシアと英国の闘争や冷戦時代のソビエトとアメリカの闘争がそれに当たる。
しかしアフガニスタンは山がちな地形と国境と合致しない複雑な民族構成のため、最初の闘争で勝利をおさめても、ゲリラ戦などで政権が簡単にひっくり返る国である。
そういう国に侵攻していったソ連、それはうまく行くわけがない。






その歴史。

1973年7月 、むりやり隠退させられたムハマッド・ダウード 前首相は、ザヒール国王が病気治療のたヨーロッパ旅行中、 共産党系士官の助けでクーデターを起こしました。 アフガニスタン共和国が建国されダウードが大統領、そして沢山の共産党員が入閣 しました。
ダウードはアフガニスタンの近代化を進め、それに強硬に反対する イスラム系政党を禁止しましたので、イスラム協会の ブルヌハヌディン・ラバニやアハマド・シャー・マスードなどが パキスタンのペシャワールに逃げ込み抵抗しました。
ダウードがイスラム政党を排斥した後、共産党はこんどは自分 たちの番では、と半信半疑です。1978年4月PDPAの重要人物、 ミール・アクバール・ハイベールの暗殺で人民が暴動を起こし、 ハフィズラ・アミンによって集められた兵が大統領官邸を包囲 します。有名なサウール革命です。ちなみにサウールとは アフガン語で4月のこと。ダウードとその家族は皆殺しとなり アフガニスタン人民共和国が建国されました。
最初は、モスクワのイニシアチブによって数年前の仲直りした パルチャム派とハルク派が入閣しましたが、すぐにハルク派の リーダーで革命評議会の議長、ムハマッド・タラキによって、 バブラック・カーマル等パルチャム派の主要メンバーが政府や党 機関のポストから追い出されました。
地方の伝統しきたりを無視した女性解放や土地制度改革によって各地 で暴動が起こりましたが、そのつど流血で鎮圧されます。この 混乱時期の1979年2月にはアメリカ大使アドルフ・ダッブズが 何者かに暗殺されます。
この混乱の責任でアフガニスタン共産党 PDPA内部ではタラキ 大統領とアミン首相との間で抗争が始まります。自分を追い出 そうとするタラキ大統領の陰謀を察知したアミン首相らは、1979 年7月に大統領官邸を包囲してクーデターを起こします。 ハフィズラ・アミンが大統領となりムハマッド・タラキは密かに 処刑されました。
モスクワの許可無くしてアミンがタラキを抹殺したので、 ブレジネフ書記長は非常に怒り1979年12月アフガニスタン革命を救 うという名目で8万人の兵士をアフガニスタンに進行させます。 ハフィズラ・アミンは暗殺され、かわりにパルチャム派の リーダーだったバブラック・カーマルが亡命先からモスクワ によって呼び戻され大統領に就任します。


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当初はソ連内部では軍部の反対により侵攻は否定されたがアミンがアメリカと内通しようとしているという情報がKGBから寄せられ結局はKGBに押し切られて侵攻が開始される。
本来、アミンはソ連軍の応援を要請し更にはブレジネフとの会談を望んでソ連の顧問団に手紙を託したりしたためソ連軍が入ってきた時は応援が来たと喜んでいたのだが、それが実は自分を暗殺してソ連の言いなりの政権を作ろうとしていたとは全く思っていなかったようである。
結局は秘密裏に暗殺しようとしたのであるが激しい銃撃戦によりアミンは暗殺された。


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ソビエト連邦からの膨大な援助にもかかわらず、 レジスタンスはだんだんと強力化します:アメリカからは 小型地対空ミサイル・スティンガーなどの近代兵器、パキスタン はイスラム兵士の訓練場、サウジアラビアは資金等で ムジャヒディンを助けます。ジハード(聖戦)の起こりです。
1986年5月、バブラック・カーマルの手腕に疑問を持ったソビエト 政府は彼をやめさせ代わりに秘密警察の長であるナジブラ・ アハマドザイをアフガニスタンの大統領に任命します。彼は ムジャヒディンと話し合う決意を示すため、国名を アフガニスタン共和国に戻しますが戦闘は続きます。
1988年5月、1万3千人という余りの多数の犠牲のためゴルバチェフ書記長 はソビエト軍のアフガニスタン撤退を決心します。ナジブラ・アハマドザイは1988年4 月のジュネーブ協定によって連立内閣を作ろうとしますが、成功 しません。
1992年4月、カブールがムジャヒディンの手に落ちると、ナジブラ は国連の建物に逃げ込みます。アフガニスタン・イスラム共和国 が建国され、シブガトゥラ・ムジャデディが初代大統領、次が ブルヌハヌディン・ラバニですが、大統領ポストを狙うイスラム 党のグルブディン・ヘクマティアルとの確執が起こります。
こうしてムジャヒディン各派が戦争を始めますが、やかで ほとんどが勝手な通行料や密貿易で生計を立てる山賊に成り果 てます。1994年秋にカンダハールに突如現れたタリバンは、 イスラム教師モハッマド・オマールに率いられ、こうした ムジャヒディンを嫌う住民の歓迎で徐々に勢力範囲を広 げていきます。
1996年9月にはカブールがタリバンの手に落ち、ナジブラは絞首刑になります。これに危機を 感じ、今まで互いにいがみ合っていたイスラム国民運動の ラシッド・ドスタム将軍などムジャヒディン各派がラバニ大統領 と力を合わせてタリバンに立ち向かう事を決めました。北部同盟 の誕生です。



ソ連崩壊の契機になったという意味では、侵攻も結果としてよかったのかなとも思えるが、アフガンにとっては更に混迷する時代に突入して行ったわけである。
こういう歴史があるにも関わらずアメリカはソ連と同じ過ちを犯し、今またタリバンが勢力を取り戻そうとしているため、この国に平和が訪れるのは何時の世になるのであろうか。
永遠に来そうにないのかも知れない。
周りの国の思惑が絡んで来るだけに難しいのかも知れない。
その昔はソ連、そこからパキスタン、アメリカ更にはイスラム教からイラン、イラク、自立するのは単純には行きそうにない。

by e_jovanni | 2006-10-15 01:00 | Peace

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