だから、木橋じゃないんだって。   

Excite 土橋を“木橋”に架け替え 国宝・姫路城の玄関口

あまり書きたくなかったけど、この道はいつか来た道じゃなくて、昔々高校時代に毎日通ってた道なので一言書いておきます。

当時の橋の正確な図面が無いので、復元ではなくて単にそれ風の木橋が造られるという事で一時揉めてたはずですが、結局はそのままですか。

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この街はどう考えても中途半端な所です。
元々城下町なのに、その風情を生かす方向へ行かずに変に都市化して何か半端な地方都市になっているし、ご多分に漏れず空洞化しようとしている。自治体はそれに対して有効な手を打てないでいる、まあどこにでもある地方都市の現状なんですが、そういう意味で城下町として一本、筋を通してもらいたいのだが期待できそうにないです。

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 世界文化遺産の国宝・姫路城(兵庫県姫路市)で、城と家老屋敷を隔てる内堀に架かる「桜門橋」を、土の橋から、組んだ鉄骨の上に木をあしらった新しい橋にする工事が進んでいる。
 2009年度から始まる天守閣の改修を前に、来年3月に完成。姫路市の担当者は「年間80万人の観光客が真っ先に通る橋。城の玄関口にふさわしい姿にしたい」と意気込んでいる。
 姫路城には廃藩置県で県庁が設けられたほか、旧陸軍の歩兵連隊が1874年ごろから1925年まで、三の丸広場に兵営を設置。江戸時代には木製の太鼓橋だった桜門橋が、明治初期に土橋に掛け替えられ、今に至っている。

築城時の姿解明に期待
 桜門橋の木橋の遺構は、大手門前の内堀の底から出土した。全長約二十四メートル、幅約五・六メートルにわたって、橋脚跡とみられる直径約五十センチの柱穴二十一個を確認。周辺から建設の際に使ったとみられるかすがいとくぎ約三十点や、柱の一部も見つかった。
 江戸後期の姫路藩主・酒井家の史料によると、桜門橋の幅は「三間六寸」(約五・六メートル)と記されており、今回見つかった柱穴の配置とほぼ一致した。
 姫路城の玄関口には江戸時代まで、防備のため大手門を含む三つの門があったことが過去の絵図や文献から分かっている。城内へは、内堀に架かる木製の太鼓橋・桜門橋を渡り、桜門、桐二門(現在の大手門)、桐一門を通って入城したとされ、遺構出土はそれを裏付けた。


解明しても、どうせそれ風のしか造らないんじゃ仕方ないでしょう。
何だかなあ!!

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by e_jovanni | 2006-06-26 01:00 | 人間として

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