今日は母の日   

Excite エキサイト : 社会ニュース <母の日>世界の街角で「お母さんありがとう」

今日は世界的に母の日ですが、本来の母の日の成り立ちを調べてみるとずいぶんと意味合いが違って来ています。

 今から約100年前の1908年5月10日、アメリカのウェストバージニア州に住むアンナという少女は、母の命日に追悼式を開き、そこで母が大好きだった白いカーネーションを参加者一人ひとりに手渡した、というのが始まりです。
 アンナ(Anna Maria Reeves Jarvis)の母ミセス・ジャービス(Ann Marie Reeves Jarvis)は、1852年、ウェストバージニア州グラフテンの小さな教会の牧師の夫と結婚しました。 彼女は素晴らしい社会活動家でした。1858年に「母の日仕事クラブ(Mothers' Day Work Club)」を結成し、病気で苦しんでいる人たちを助けるために募金活動をしたり、病気予防のため牛乳や食品の検査など、公衆衛生のための活動をしていました。 南北戦争(1861〜65年)が始まると、「母の日仕事クラブ」は中立を宣言して、南北双方の傷ついた兵士の看病をしました。戦争も終わりに近づいた頃、彼女は戦争で傷ついた人々の心を癒そうと、今度は「母の友情の日(Mother's Friendship Day)」を企画。 政治に関係なく南北双方の兵士や地域の人たちを招き、お互いに敵意を持つことを止めさせようとの狙いがあったこのイベントは、大混乱の恐れがあったにもかかわらず、大成功をおさめました。実は彼女は戦争や病気で8人も子供を失っています。それにもかかわらず、母としての愛情を、自分の子供のみならず、すべての人々に注いだのでした。
 さて、ミセス・ジャービスの影響があったかはわかりませんが、南北戦争後の1872年、南北戦争の戦記を書いたジュリア・ワード・ホーウ女史(Julia Ward Howe)は、平和を祈り、「平和のための母の日(Mother's Day for Peace)」として毎年一度イベントを開こうと提唱しました。
これは現在の『母の日』の原型ともいえるものです。ホーウ女史は宣言文の中でこう述べています。

私たちの夫は、虐殺の血の臭いに満ちて帰って来るべきではない。
私たちの子供は、今まで私たちが教えてきた慈悲、寛容、忍耐を忘れる ために、戦争に連れて行かれるべきではない。
私たち、この国の母親は、どこまで優しくなっていくのでしょう。
自分たちの子供が、相手の国の母親の子供を殺すのをだまって見過ごす ほどに優しくなってしまうのでしょうか。







 女性は社会的弱者といわれる一方、19世紀から、(中流階級の)アメリカの女性は社会の改革に大きな貢献をしてきました。奴隷制度の廃止のために主導的な役割を果たしたのは女性でした。その後も、暴力、女性労働者の環境改善、子供の保護、公衆衛生、貧しい人たちへの社会保障などの問題について政治的な圧力をかけてきました。「母親」と「社会正義」は、大きな結びつきがあるのです。
 その後30年の間、国民の祝日でこそありませんでしたが、毎年6月2日の「平和のための母の日」には、社会運動としてさまざまなイベントが各地で行われてきました。
 こういった流れがあったからこそ、ミセス・ジャービスの追悼式は社会的な注目を浴びたのでした。アンナは母親だけではなく、すべての母親の社会に対する貢献を讃えて、祝日として『母の日』をつくることを求め続けたのでした。そして願いは叶ったのです。
 そんな素晴らしい理念を持って1914年から国の祝日として始まった『母の日』でしたが、その理念は消費文化の中で歪曲されてしまいました。
 政治家とビジネスマンにとって『母の日』は絶好の「チャンス」でした。
 (男性中心の)政治家たちは、平和を祈るはずの『母の日』を「家族のために捧げてくれている母親に感謝しましょう」というアイデアにすり替えてしまいました。ビジネスにとっても、平和への祈りより「母へのプレゼント」の方が消費を刺激し、儲かるので好都合でした。

 当時の『Florists' Review』という花業界の雑誌には、大胆にも"This was a holiday that could be exploited.(この祝日は利用できる)」と書かれています。そうして、町では「母の日のプレゼントには、花を贈りましょう」という広告があふれたのでした。

アンナの思いとは裏腹に『母の日』の行事は年々盛大になっていきました。

 そんな折、ある「事件」が起きました。1923年の母の日フェスティバル。アンナはそこで母のシンボルだった白いカーネーションが一本1ドルという当時では信じられないほど高値で売られているのを目にしました。アンナはそれを見て激怒し、「貪欲のために母の日を侮辱している」──と、とうとう行事差し止めの裁判を起こしたのです。

 しかしアンナは裁判に負けてしまいます。事件以来、彼女は世間から皮肉屋として白い目で見られるようになってしまいました。『Florists' Review』誌は裁判後、"Miss Jarvis was completely squelched"(ミス・ジャービス(アンナのこと)を完全にやりこめた)と勝利宣言をしています。この後、『母の日』の商業化がますます加速していったのは言うまでもありません。



 死ぬ間際に、アンナは記者にこう短く告げました:
 「私は、自分が創ったこの祝日の商業化を自分の手で止めさせることによってお母さんの恩に報いたかった」

「母の日」というものの意味をたまには考えてみるべきですね。



 5月14日の「母の日」を前に、世界各地の街角で「お母さん、いつもありがとう」の感謝の気持ちが飾りつけやアート、音楽などで表現された。日本をはじめ、世界の多くの国で5月の第2日曜日が母の日だが、贈る花の種類や祝い方は国によってさまざまなようだ。

 AP通信によると、5月10日が母の日のメキシコでは、世界的ブランド・KENZOのデザイナー、高田賢三さんプロデュースによる真紅のポピー畑が首都メキシコシティーの美術館前広場に出現、訪れた人の目を楽しませていた。

 また、米ワシントン州・レントン市のジーン・クーロン・メモリアル海浜公園では11日、14日の母の日を意識してか、敷地内にある女性の銅像にネグリジエや花柄のスカートなどが着せられていることが分かった。同公園の従業員の話では、匿名の市民が一年を通してさまざまな祝日に見合った洋服を銅像に着せているという。ドレスアップした銅像は公園側の計らいで数日そのままにされた後、元の状態に戻される。

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by e_jovanni | 2006-05-14 23:49 | 人間として

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