本当に終焉ですか?   

Excite エキサイト : 社会ニュース 萱野茂氏が死去 アイヌ民族初の国会議員

国会議員になった時の印象が強くて覚えているのだが、最初は社会党の議員として後年は民主党ですか。
アイヌ民族初という事ですが、後に続く人はいないようですね。
アイヌということで多少調べてみましたが、先住民族であり日本の縄文人としての系列が言われている様です。ただ文字を持たない民族であるがゆえにその歴史を遡る事は難しい。
アイヌ文化の伝承は、もうこれでは難し過ぎるのではないだろうか。一つの民族の文化が彼とともに消え去って行くのであろうか、残念です。
余談ですがMacの「ことえり」でアイヌ語が表示されるがもう一つわからない。

消え去って行く原因は、これまでの日本のアイヌに対する政策により蔑まされ人口を減らされた事によるものである。随分と非道い事をしたものである。
戦時中の強制連行を上回るものがある。

合掌。

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「アイヌの碑」萱野茂著 朝日文庫 より

d0040314_22585836.jpg昭和二十八年の秋ごろから、アイヌ民具の蒐集をつづけていくうち、アイヌ文化全般を見直そうという自然な気持ちがわたしの心の中に生まれてきました。アイヌ研究者に閉ざしていた心を少しずつ内側から開いていき、研究に対しても協力するようになりました。ちょうどそのころだったと思うのですが、二谷国松さん(アイヌ名、ニスッレックル。明治二十一年生まれ)、二谷一太郎さん(同ウパレッテ。明治二十五年生まれ)、それにわたしの父、貝沢清太郎(同アレッアイヌ。明治二十六年生まれ)の三人が集まって話をしていました。この三人は、二風谷ではアイヌ語を上手にしゃべれる最後の人たちでした。三人が話していたのは次のようなことでした。「三人のうちで、一番先に死んだ者が最も幸せだ。あとの二人がアイヌの儀式とアイヌの言葉で、ちゃんとイヨイタッコテ(引導渡し)をしてくれるから、その人は確実にアイヌの神の国へ帰って行ける。先に死ねたほうが幸せだ」 聞いていて、わたしはとても悲しかった。「先に死んだほうが幸せだ」。わたしは何度もこの言葉を心の中で繰り返しました。この言葉の意味は、民族の文化や言葉を根こそぎ奪われた者でなければ、おそらく理解することは絶対に不可能でしょう。人間は年をとると、死ぬということにあまり恐れをいだかなくなるといいます。しかし、死んだときには、自分が納得できるやり方で、野辺の送りをしてもらいたいと願う気持ちには変わりがありません。その納得できる葬式をしてもらいたい、ただそれだけのために早く死にたいと願うほど、わたしたちアイヌ民族にとってアイヌ文化、アイヌ語は大切なものなのです。そして、その三人のうち、“最も幸せ”になったのは、わたしの父でした。



アイヌとアイヌ文化

 アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない。アイヌの社会では、アイヌという言葉は本当に行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、日本人(シサム・シャモ)とアイヌとの交易量が増えてきた17世紀末から18世紀初めにかけてだとされている。理由はアイヌが、「蝦夷(えぞ)」と呼ばれるのを嫌い、「アイノ(アイヌ)」と呼ぶように求めたとされているが、呼称そのものが普遍化したのは明治以降になってからのことである。
中世以降、日本人はアイヌを蝦夷、北海道を蝦夷地と称してきた。北方の民族からはクギなどと呼ばれてきた。朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあり、アイヌを東北地方以北の全土(飛躍した説では琉球までを含む日本全土)に住んでいた原日本人の一つする説もある。これまで起源論や日本人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学・医学・言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきた。
しかし明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いと言う説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。アイヌ=縄文人近似説が主流になるまで、アイヌ=ヨーロッパ人近似説には日本の学会において強い影響力があった。このような認識はまた、日本政府の様々な政策(同化政策、ロシア国境地帯からの強制移住など)にも色濃く反映された。
彼らの祖先は日本人の主体となっているいわゆる和人と同じように縄文人の一部を形成し、おおまかには続縄文文化、擦文文化を経てアイヌ文化の形成に至ったことが明らかになっている。しかし、その詳細な過程、縄文人集団から和人集団とアイヌ集団への分化過程については不明な点が多く、かろうじて各地の地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(またぎ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いことが推定されている。特に擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しい。
江戸時代には松前藩がおもにアイヌの人々と交易を行っていた。当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
現在、アイヌの大部分は北海道に住んでいるが、北海道を離れて生活するアイヌも、けっして少なくは無い(東京周辺だけでも北海道在住アイヌの一割を超えるとの説もある)。

アイヌ文化の成立

アイヌ文化は北海道で13世紀に成立した。資料が十分でないため、アイヌ文化成立について考古学や文献でその事情を跡付けることはできない。しかし基本的には、北海道の前時代にあった擦文文化を継承しつつ、オホーツク文化と融合し、本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。
擦文時代の前にあたる続縄文時代の土器の文様には、アイヌの衣装に描かれる模様(アイヌ文様)と似ると指摘されるが、アイヌ文様はアムール川流域やサハリンの諸民族の文様とも類似しており、その発生・系統を実証することはできない。
オホーツク海南沿岸にあったオホーツク文化には、熊を特別視する世界観があった。これはアイヌ文化と共通するが、擦文文化にない。アイヌにとって重要な祭祀である熊送り(イオマンテ)がオホーツク文化にあった可能性も示唆されている。
また、擦文文化とアイヌ文化の生活体系の違いは、日本からの移入品の量的増大にあり、アイヌ文化にとっては交易で入手する物が重要な要素になっていた。この点からは、アイヌ文化を生んだ契機に日本との交渉の増大があると考えらている。
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by e_jovanni | 2006-05-07 23:03 | 人間として

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